花は半開を看、酒は微酔に飲む・・・・・・菜根譚

「花は半開を観る、酒は微酔のほろ酔いで止める、その中にこそなんともいえぬ趣があるのだ。泥酔は醜い限りというもの。満ちたり過ぎては良いものが見えない。」

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ノアサガオ
県内では森といわず野といわず普通に見られる。林や灌木地では樹冠を覆うように繁茂する。他府県では「琉球アサガオ、西表アサガオ、宿根アサガオなどの名前で流通しているそうです。

 

 

 

 西欧では花を贈るとき、満開に咲いた花が喜ばれるらしい。

 所変わってわが国では、花を贈るにしても飾るにしても、今開かんとする花時が好まれるようである。満開そのものを愛でるのではなく、満開にいたる直前を楽しむようだ。

 即物的に物を楽しむのではなく、時間や空間など間(マ)の中に凝縮する何物かが問題になるようなのだ。期待感そのものかもしれない。

 ここに、千利休の朝顔の話がある。

 利休の茶室の庭に朝顔が見事に咲きそろうことを聞きつけた太閤秀吉が朝の茶を所望した。その秀吉が茶室に向かう露地の朝顔は刈り取られて一輪とて咲いてはいなかった。打ち水の清清しさとは裏腹に朝顔見たさの期待が裏切られての苛立ちと、腹立たしさをこらえてかがんだ茶室のにじり口。しかしそこから見上げて目に入ったのはまさに今開かんとするまぎわの凛とした朝顔の花姿であった。 

 さすがの秀吉も利休の演出にはまってしまった己の力量の不足をふがいなく思ったであろう。それでも、その美しさに見入ってしまったのである。

 花はいづこか、庭のどこに朝顔は咲いているのか、早く見たいという期待が裏切られて、あきらめの後の花一輪に凝縮された美、満開までの期待の数時間の間しか保たれない麗しさ、そこに美をみつける日本人は世界でもまれな美意識を持ち、研ぎ澄まされた感性を備えた民族だと思う。

 料理とてかわりはない、走りのものが手に入ったからといって、それで事が足りたわけではない。美味しさから言えば旬のものがうまいに決まっている。その上に安い。走りはこれから来る季節への橋渡し。旬の時期を迎えて旨味の増す食べ物への憧れの表現なのだ。例えば鰹。「……山ほととぎす初鰹」といわれる初夏の鰹、黒潮にのって北上するのであるがそのころ脂がのりはじめる。走りである。鰹の旬は南下をはじめる8月末から10月頃にかけてであろう。そのころには鰹は脂がのって美味しくなっている。その鰹を目に青葉のころから待ち焦がれているのだ。花は満開を待ち、食べ物はその美味しい季節を待つ。満を持しての悦び。そういう感性の日本文化は失いたくない。西洋文化は直情すぎる。

 美味は時にあるだけではない。量にもあることもまた知らなければならない。山海の珍味だからといってそれだけで腹を充たすほどに盛りつけてはよくないものだ。機会があったらぜひ次にも食べて見たいと思わせるほどの量を盛りつけなければならない。旨いということがわかるに足る量、ほどのよさというものがある。料理人の心得るべきことのひとつである。

 「美味しい」という子供や女房の一言で図に乗って同じものをきりもなく毎日まいにち作り続けては愚かというもの、飽きるほど大量に作るのもまた能なき者のすることと肝に銘じておこう。