今晩の肴だ。
でも酒がない!
あちこち探してみた。泡盛瑞穂が小さじ2杯、日本酒ゼロ、ワインもゼロ。
食器棚の一番下を開けてみるとフィリピンとエクアドルのラム酒がそれぞれボトル半分。中国の老酒が1本、クレームドカシスが1/2本、ライチ酒1/5本etc.
ラム酒は強すぎるのでカシスで割った。甘い? 水、炭酸水、いろいろ加えているうちにわけがわからない味なってしまった。結局酒なしでお茶と肴だけになってしまった。
そうだ、今日のお題は「鶏を煮る」だった。
牛を煮る大きな鍋で小さな鶏を煮ること。小さな鶏を煮るには牛鼎のような大きな鍋は不向きであることから、優れた人物は些細な仕事をさせるには不向きである。
「……伝曰、『函牛之鼎以烹雞、多汁則淡而不可食、少汁則熬而不可熟』比言大器之於小用、固有所不宜也」 蔡邕(後漢の文人)が何進(霊王に仕えた役人)に辺譲という者を推薦するときに、「牛を入れて煮るほどの大きな鼎で鶏を煮ると汁が多すぎて味が薄く食べられなかったり、汁が少なすぎて焦がしてしまったりするものだ」といいます。このことは言えば、大きな器は小さな用には不向きであるということです」とのべた。 とはいえ、核家族化が進み、家もそれなりの構えでしかないので一般の家庭では不可能なことである。我が家とて同じこと。那覇の公設市場で1、2斤ほど買って来て、少し大きめの鍋で炊くことになるのだが、やはり味が違う。 何年かまえ、山羊汁が食べたくなった私は3斤ほどの肉をコトコトとしっかり煮込んだ。 そのころ健在だった女房の父も山羊汁が好物だったので取り分けて持っていった。 一口汁を啜った義父の評は、 「上品な味だね」の一言であった。 たしかにそうなのだ、こってりとした旨味がない。山羊汁なんて上品な味であっては困るのだ。馥々とはいってもそれなりのクセがあってこそ山羊汁。上品な味では納得できない。草息れのする青い匂いと朽ちた落ち葉の土に帰る匂いが入り混ざった田舎の匂いだ。汁も澄みきっていることは不自然である。 臓物やら骨髄やらのいろんな部位が入っているのだから土色の白みがかった色に濁っていなければならない。 どうしてなんだ。 山羊肉の専門店で食べるのとは旨さに雲泥の差があることは煮込みながらもわかっていた。もちろんこの場合、雲のほうが私の作である。上品過ぎて山羊汁らしくないのだ。土臭い田舎の匂いが欠けている。 羊頭ではなく狗肉ではないか?、いやにあっさりしている。 しかし、確かに山羊肉である。 巷には「羊頭を掲げて狗肉を売る」店もあるらしい噂を小耳にはさんだことがある。 しかし、その肉屋は何年も続くれきっとした山羊肉専門の古い店だ。狗肉を売ることなど決してない。しからば何だ。鍋のせいか。 二抱え以上もあるシンメーナービに入りきるだけの山羊肉を放り込み、時間をかけて煮る。 これなのだ。 そうするとグツグツグツグツと煮込まれて骨の髄液は溶け出し、臓物はシコシコと心地よい歯ざわりに煮えるのである。 小さい鍋ではそうはいかない。ものの数分も経てば汁は噴きあがって干上がってしまう。だからといって弱火にすればいいと言うものでもない。 美味しい山羊汁は一頭丸まるの肉を大きな鍋で煮ること、このことに尽きるのだ。だが、我が家にシンメーナービを備えるわけにはいかない。大きすぎて使いこなせないのである。 重量級のシンメーナービで家族3人分のチャンプルーを作らされてはそのうち女房が料理をしなくなってしまう。 そうなっては一大事、やはりここは、サッパリ味の上品な山羊汁で我慢するか、さもなければ、ヒィジャーヤー(山羊料理屋)に通うしかない。
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人によって好き嫌いのはっきりしている料理に山羊料理がある。その中の一つ山羊汁は好きな人には堪えられない旨さである。山羊肉の馥々煮えた匂いとフーチバーの香りが織り成す豊饒はえも言われぬものだ。その山羊汁であるが、やはりたっぷりの肉をシンメーナービで煮るに限る。
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