突然に海鞘(ホヤ)が食べたくなった。
東日本大震災以来、なかなか口にすることができなくなってしまったホヤ。その形といい、匂いといいなかなか好きになれる人は多くはないと思う。でも、僕はとても好きだ。冬の牡蠣、夏のホヤ、これを食べないと体調を崩してしまいそうになる。
今日は71年目の誕生日。女房におめでとうと言ってもらおうと夕餉の肴にホヤを探しに泊りのイユまち、公設市場も行ったのだがどこにもない。ありそうなのはおもろまちの生協スーパー、パレットのリュウボウだ。だが、どこにも無い。しょうがない今日は美味しいシャンパンででも乾杯して「誕生日おめでとう」と言ってもらおうと「ワイン&インテリアクラシコ」に行ったのだがお店は休み。残念!今日はついていない!!

食べ物に執着すると思わぬ失敗をしてしまう。
 
大阪、京都を女房と旅行した時である。その日の宿を大阪に決め、祇園祭の京都へ向かった。京の都はちょうど山鉾巡行の日、たくさんの人出で賑わっていた。たまたまその日が私の誕生日ということもあって夕食には美味しいのを食べることにしていた。
junko2012-03

 それで、お昼を軽くすませたのであるが、2時、3時ともなるとお腹がすいてどうにもたまらない。私は食事を美味しくとるために間食をしないことにしている。しかし、その日は格別にお腹の虫がうずいた。しばらく空腹を我慢しながら山鉾について歩くと屋台にちまきが束ねられてかかっている。雨が降り出したが凌ぎにそのちまきを買い、路地の店先の雨よけの下でちまきの笹を剥いた。
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↑ちまき(厄除けです 食べられません<いや、何も入っていない(喰う気<空気>)のみ)


 アアァ……

 どうしたわけか、餅がない。お菓子屋さん、祭りの忙しさで作りそこなったか。もう一つあけてみる。やはりない。

 三つ、四つと剥いてもあけても餅はでてこない。

 だまされた。

 粽を懸げて空気を売りつけている。

 しかし、ここで地団駄踏んでもしかたがないと気をとりなおして数秒、ここに至ってやっと気がついた。これは縁起物、お飾りなのだと。だが、粽の空の理由がわかったからといって腹の虫は治まらない。

 こんな京都は早々に切り上げ、大阪に帰ることにした。暫く行くと列車の中で女房は駅弁を食べだした。私にもすすめるのだが、今弁当を食べてしまったのでは夕食が美味しくない。ここは我慢の一徹。女房の口元をみながら……‥こいつ、人の気も知らずによくもまぁパクパクと食っていられるもんだ。こっちだって腹がすいているのを我慢しているのだ。つきあうのが女房というものじゃないか。大阪へついたら見ていろよ、うまい物は全部一人でたいらげてやる……などと思いながらのしんぼう。

 やっと大阪につく。しかし、駅を出てしばらくすると胃がキリキリ痛み出した。腹の虫はすでにあきらめたのかグゥグゥ言わなくなっていたが、食欲中枢が食べる態勢を捨て切れず、怒り出したのである。

 痛みは食道楽の街についても治まらない。胃を抑えて前かがみになりながらよたよた歩く。女房はというと「やせ我慢するからいけないのよ」と平気な顔をしている。せっかくの誕生日、乾杯をして女房におめでとうの一言も言ってもらいたいと思ったのがアホらしくなってくる。

 それでも女房が胃薬を買ってきたのでとりあえず飲んでみる。効き目はない。

 こうなると、何でも良いとにかく、何か胃を満たすものを口に入れるに限ると思い、手近の店に入った。だがこの痛さでは食べられるものではない。それを横目に女房は食べる。食べること尋常ではない、途中の列車の中で弁当を空にしたにもかかわらず蟹を食べつづける。

 あの時、あのちまきに目をくらまされていなければ、胃も痛くならずにすんだし、蟹シャブなどではないもっとうまい物を一人占めできたのにと思いながら女房の健啖さに恐れいるだけであった。



羊頭狗肉               無門関



 羊の頭を看板に懸けてあたかも羊の肉を売るかに見せかけて狗の肉を売ること。見かけと中身が違う見掛け倒しのこと。

 

 無門曰、「黄面瞿曇、傍若無人、圧良為賊、懸羊頭売狗肉。



 釈迦が霊山で説法した時、花をつまんで人々に示した。みんな、その意味がわからないでいるところを、迦葉だけが顔をほころばせて微笑んだ。それをみた釈迦は迦葉が法門を理解したとして喜び、迦葉をほめたという。そのことに対して、宋の禅僧無門は釈迦の態度を批判して「善良な大衆を見下して、ろくでもないことをさも立派そうに説教しているのは人々を欺いていることと同じだ」といった。