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妻が学校をはじめたいと言い出したのは今から30年ほど前のことになる。そのころ妻は調理師養成学校の教員の職にあった。そこに通う学生達は中学校出たての少年から60才代の年配の人まで老若男女さまざまである。受験に失敗した者、中途で学業を断念した者、会社の倒産で再出発を目指す者、技術を身につけて海外で一旗揚げようとする者、動機や経歴は異なっても身を立てる術を学ぼうとする学生達の一心不乱な目は輝き、一人として曇ることはなかった。妻はそのような学生達に接するにつけ、自分で学校を開設したいという夢が膨らんできたのであろう。よく妻は言う「新しいことを始めるのに年齢は関係ないし、新しいことを始めることは怖いことではない。新しい人生の出発、夢があって素敵なことだと思う」。そのような妻の思いは新築早々の我が家の小さな台所で「料理と生活知識の教室・西大学院」を開講させてしまった。幸いに10人ほどの受講生が集まり、月に1度料理を教えながら器の知識、テーブルコーディネート、マナーについての話しなどをするようになった。

 当時の私は大きな会社のサラリーマンとして相応の収入を得ており、職を投げ打って新しいことを始めるなどとは思いもしなかったので、女房の趣味、井戸端会議の延長だとたかをくくって眺めていたものである。

 しかし、妻の学校への夢はますます昂じ、スイスのフィニシングスクールの特別カリキュラムに参加したり、類似の学校の情報を集めたり、本を出版したりで着々と開校への足がかりをかためてしまった。私はまさに外堀、内堀を埋められて右往左往する太閤秀頼である。ここに至っては新居を明け渡さざるをえず、棲みなれはじめた家を捨て、環境に優れた知念村に学校兼居宅を新しく構えることとなった。そのころには私も女子の教育に余生を使う決心ができて会社を辞め、妻と共に夢をもって歩もうと思えるようになっていた。

 平成7年に開校した西大学院は「若い女性たちに生活の基本としての衣食住の知識と技術を伝え、そしてなによりも妻となり母となるであろう彼女達に思いやりや優しさの芽を育ててやりたい。自らの人生を切り開く勇気と力、心構えを身につけさせたい」という女房の夢と、また「自分を取り戻し、私らしく生きたい」という若い人々の願いに応えられる多くの事が一杯に詰まっている学校である。そういう意味ではこれ以上の学校は日本にはない。

 しかし足元は「糟糠すら飽かず」の日々ではある。それでも40年近く連れ添った女房と共にこれからもこの道を歩み続けていこうと思っている。

糟糠の妻は堂より下さず   後漢書

 苦労を共にしてきた妻は大切にしなさいという教え。

 弘曰「臣聞『貧賎之知不可忘。糟糠之妻不下堂』」

 


 後漢の光武帝が寡婦となった姉の再婚相手に宋弘はどうかと思い、宋弘に言った「人は出世したり、金持ちになったりすると交際する友人を変えたり、妻を変えたりするという。これも人情であろうなァ」と。これに対して宋弘は「『裕福になったからといって、貧しかった時の事を忘れず、共に苦労をしてきた妻を大切にしなければならない』と聞いております」と当時の諺で答えた。帝は宋弘を姉婿にすることをあきらめざるをえなかった。 糟は酒かす、糠は米ぬかのこと。


糟糠すら飽かず     史記 伯夷伝

 酒かすや糠すら満足に食べることのできない貧しい生活。